ジェイムズ・ティプトリー・Jr『輝くもの天より墜ち』

自分の役割を観客に明示するかのようにして登場し、いささか大げさな身振りと台詞で場を作り上げていく人物たちのふるまいからみても、この小説はあからさまに演劇的な結構をしている。演劇的であるということはすなわち政治的であるといってしまってもいい。では、この(政治的)舞台の上から演者たちは、さていったい何を観客たる読み手に訴えかけようとしているのかということを観点にしたとき、やはり最も胸に染みこんでくる所は、“殺された星”の復讐者によるp315冒頭のあの言葉だろう。それは、ネオフィリアとしての本能と欲望の圧力に由来する、音楽的といってもいいような、言葉として表すことのけっしてできない非・論理的で感覚的な“美しいもの”の強度/どんなに冷静な理性とどんなに深遠な思考をもってしてもけして届かないその強度に対しては絶対に抗いきれない人間的存在の悲劇性を、人類学的スケールに射影することによって黙示の光景を予感させた「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」からつながり、『たったひとつの冴えたやり方』へといたるひとつの宣誓のように思える。美と快楽をもたらす接触が、「手をたずさえてまっしぐらに突進していく焦熱地獄」への必然だとしたら、そのときにとるべき冴えた、たったひとつのやりかたは、そもそもふれあう事そのものを絶つことしかないのではないか…。“輝くもの”が通りすぎ去ったあとのダミエム人のふるまいからは、美しさというヴェールにつつまれていて、ヒトには見えなかった/見ようとしなかったその本性がかいま見え、瞬間肌を粟立たせる。しかしそれはある意味では、ヒトを冴えたやり方へと向かわせる契機となるべき福音とみなしてもいいのかもしてない。また、こうも考えてみたい、美しさに酔い溺れ喜びに溢れる生というのは、文字通りいのちを懸けるに値するのだ…とも。