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東野圭吾『容疑者Xの献身』における湯川が→ 便宜上 ←友情の名の下におこなった、関わったものすべてを奈落に落とし込まずにはおれない断罪があまりに酷薄と感じられてしまうのは、湯川という知性がその結果を当然予期し得たに違いないという確信に似た思いがぼくの中にあったからで、そしてその観点から物語を改めて俯瞰してみたとき、そこにもうひとつの“純愛にも似た思い”がもたらした愛憎を見つけることができる。つまりは、→ かつて奇跡のごとく遭遇することのできた、自分以外の、純粋知性に戯れる数少ない異星の眷属が、凡婦に心奪われ低俗に没落してしまっているそのシルエットを、けして許すことのできないものだと思ってしまったとき、すべてを壊せという呼び声が湯川の心に生まれたのでは…湯川がその行為によって裁いたのは殺人ではなく知性への信仰に対する背信だったのではないか ←ということ。物性論の試験の本質が実は素粒子論にあった、という作中の言葉はもしかすると作者本人からのメッセージとしても挿入されたのかもしれないと考えたりもする。