桜庭一樹読書日記』を再読する(一度目は当然web)。“中学生のころの全能感の滓がどこかに残っているのか、なんとなく、毎回、ふっつうの自分にがっかりする。きっともっとずっとマニアックな人でいてほしいのだろう。大人になった、自分という女性に。そろそろ、いい加減、そういう自分を許していいころなのになぁ(18頁)”“我は女である、という、漠然とした、明けない病のことを思う。(62頁)”。もちろん桜庭一樹の一連の小説に見受けられる肝要は女性性に対するイントレランスであって、たとえば『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』『少女には向かない職業』に現われている“自分の意思を蔑ろにしながら押しよせる女性性の発動と変容する己の外面/内面、そこに断ち難く付随してくる外部の眼差しにさらされることへの怯え、モラトリアムの希求、どうあがいても敗北を決定付けられているセクシャリティとの闘い、そして自分の恐れているものすべてを一身に引き受けているかのような分身の存在”…まるでアポカリプスのようなアドレッセンスこそが、あの絶えずしめつけるようなテンションを生み出しているのだと、ぼくは思う。なおかつ“語り手”が、すべて経験し終わり、変容風を浴びた後の世界の住人≒女性≒大人であり、いまや手の届かないものとなってしまった過去のノーブルなイノセンスを何としででも弁護しようと画策する、静的ではあっても壮絶なノスタルジアがまた、物を語るということの本質に肉薄していて胸を打つ、そうも思っている。『七竈』や『赤朽葉』においてはもはや、性は、親の代からの呪いのようでもある。自分ではどうにもならない性への不寛容と諦念。そのなかで、しかし桜庭一樹は最近作『青年のための読書クラブ』でアクロバティックな倒錯をやってのけている。あまりにも女性的なフォーマルをまとっていても性的なものを忌避するモノセクシャルのアジールとしての「女子高」と、その仮面性をやわらかく拒絶しながらしかしさらなる(本という名の)虚構のなかへと逃避するアジールのなかのアジールとしての「読書部」。うっかりゴッサム・シティアーカムアサイラムの構造との類似を思いついてしまったけど、それはそれとしてこの架設で行われるのは性の絶対王政に対するサボタージュとしてのテロリスムだ。もちろん最後には女性性が状況を回収し、この架設自体も(男性生徒の受け入れという)性的な介入によって百年のモラトリアムの終焉を迎えるのだけれど、最後の最後にちょっとした足掻きがあって喝采せずにいられなくなる。世界は変わらない、しかし抗うことはできる。その不断の意志こそがロマンティシズムなんじゃないかな。