トレヴェニアン『ワイオミングの惨劇』[bk1]

時と場所は州に昇格して間もない1898年のワイオミング。14歳で生まれ故郷に地獄の週末をもたらした事件をはじめ数々の凄惨な犯罪を起こし、収監後は千冊を超える書物を読む知性派の凶悪犯がふたりの囚人をつれて脱獄を図る。いっぽう、銀山と麓の町の間の岩棚に生活物資中継点として一夜にして現れ一時の栄華と衰退を経、いまは十数人の住人を残して寂れている鉱山街“20マイル”に、時代遅れの重たいショットガンを抱えた若者がぶらりとやってくる。『ダーティ・ホワイト・ボーイズ』か、はたまた『用心棒』か。ウェスタンの典型はいえ、謎と予兆いっぱいのオープニングで、このあとに起こるであろう苛烈なアクション&サスペンスを期待しないではいられない…作者がトレヴェニアンでさえなければ。
“わたしはこれまで自分の小説の読者を四十歳以下の男と想定し、アメリカを動かしている二つの力――物質主義とマチズモ(誇示的な英雄主義)――に彼らが背を向けるように仕向けることを目的にしてきたが…”*1と語るトレヴェニアンが、ハリウッド映画によって敷衍された感のある、アメリ創世神話の元型ともいうべき西部開拓時代を小説の舞台として選ぶからには、当然そこで描かれるのはショウビジネス的な方法論に対する痛烈なアイロニーサタイア盛り込まれるはずでしょう。実際『ワイオミングの惨劇』にはショッキングな惨劇やセンセーショナルな銃撃はほとんど描かれていない。前半はショットガンを抱えて鉱山街にやってきた、リンゴ・キッドシリーズの本のみを心の糧としている若者が、どうにかして街にに居つこうと“生まれついての詐欺師の手口”を駆使して住人に取り入り、半端仕事を得ていく様子が描かれ、中半以降脱獄犯たちが街に逃げ込んでくる段にいたっても凶悪な惨劇は起こらない。もちろん脱獄犯たちは暴力を行使するけれどそれは“街を(恐怖によって)統治する”ための最低限のもので、あとは行為を正当化するような(これまた詐欺師のような)口ぶりで街に居座ることになる。
…まぁここまで読めば脱獄犯は“アメリカ”…というか“新大陸に移住してきたヨーロッパ人”のメタファーなんだなとわかってくる。終盤になると主犯格のやつは汎アメリカニズムまで唱えはじめるのだ。だいたい脱獄の契機となる新米看守とのやり取りだって聖書がらみ(ピューリタン革命の暗喩?)のものだし、“20マイル”という街だって白人黒人中国人の娼婦、百貨商のユダヤ人、スウェーデン系の食堂経営者、そして老人から少女までそのまんま移民の国アメリカをカリカチュアライズして矮小化したようなところだ。こういったもろもろをトレヴェニアンはユーモアたっぷりに描いて最後まで飽きさせない。とびきりの“アンチ”クライマックス拍手したいぐらいだ。
…とまぁこんなことを考えなくても本書はじゅうぶんに面白い。なんといっても時代遅れのショットガンとリンゴ・キッド本と→ 生延びるために身につけざるを得なかった ←詐欺師の口ぶりの若者の、ちょっとした恋とちょっとした自尊心の青春小説として、甘酸っぱい感情をビンビン刺激してくれる。読んでいる途中ではジョン・D・マクドナルドの、スリラーと青春小説を融合させた忘れがたい秀作『シンデレラの銃弾』を思い出したりもしました。→ ビルドゥングスロマンとしてのカタルシスが欠如している ←のは玉に瑕というかトレヴェニアンらしいというか…それにしても謎めいた若者の過去とその結末はたまらなく切ないものがあります。個人的には大満足の一冊。

*1:バスク、真夏の死』p330-p331、訳者あとがきに引用されたトレヴェニアンのインタヴュー