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SFとかファンタシィが何であるかって聞かれたら「それっぽいガジェットが出てくるお話だよ」って答えると思う、すくなくとも人にはそう答えるはずだ。それ以上のことは、たぶん人それぞれになってしまうだろうし、だったら最小限の共通観念のみをつかって会話しておけばいい「”こーゆーの”ってSF(ファンタシィ)だよね」とか・・・まあ”それっぽいガジェット”ってのは各人の経験と勘とで察してください。
でも自分に問いかける場合、もう少しぐらいは真摯であってもいい。
SFについてはある程度結論は出している。重視したいのは物語がガジェットに依存している度合いだ。与えられたガジェットから外挿的に導きだされたパラダイムシフトが物語のプロットや面白さにどれだけ奉仕しているかが、ぼくにとってのその物語の”SF度”の高さとなる。物語がガジェットから生まれることがSFの前提であって、単純に政治小説ウェスタンの配役やセットを”それっぽいガジェット”に置き換えたものを「なかなかいかしたSFじゃないっすか、これ」とは言えないのだ。
「一般的な通念では、物語の中に竜やヒポグリフが登場すれば、ケルトか中近東の中世のようなおもむきのある舞台設定であれば、また、魔法が通用していればそれだけでファンタジーとしてみなされてしまいます。これは誤解です」(ル=グィン「夜の言葉」より)
そういうことだ、でももうひとつ言っておくことがある。物語に持ち込まれるガジェットが魔法であっても竜であっても、それが存在することによるパラダイムシフトを外挿的に推論してあれば、その物語はSFだということだ。・・・すくなくともぼくにとっては。
ディヴィッド・ブリン『プラクティス・エフェクト』[bk1]が格好のテキストとなる。地球に似た世界”フラステリア”は奇妙な法則”プラクティス効果”によって支配されている。これは”道具を使えば使うほど、その道具がもっと使いやすい構造に(実際に)変化してしまう”という現象だ。だからその世界では最初は非常に雑なものしか作られず、それをしっかり使い込むことによって便利なものに変化させる仕事があったりする。そんな世界に(こっち側の世界の)科学者が転移して、彼が持ち込んだ道具が一騒動の種となって・・・とまあこんな感じかしらん。
押さえておきたいのがフラステリアという世界が中世風だったり、プラクティス効果にその現象を裏付ける技術的説明がなかったり、つまりはいかにもファンタシィっぽいパッケージでさし出されているということだ。”ファンタシィっぽいガジェット”で満たされているから、それじゃぁ『プラクティス・エフェクト』はファンタシィであるとしてしまっていいのだろうか。
 ぼくは”プラクティス効果”の存在から推論される社会状況を構築し、こちら側の道具とあちら側の文明がぶつかることによってストーリーが切り開かれていくこの物語を、SFと呼びたい。でもこのあたりは最初に書いたように人によって受け取り方はちがうよね、ってこと。
さて・・・ガジェットそのものにSFとファンタシィの違いを見いださないっていうのならば、じゃあぼくにとってのファンタシィって何だろう。