山田正紀『神狩り2』[徳間書店][bk1]

想像できないものを想像するというのが山田正紀の仁義であって、『神狩り』はこの啖呵をそのまま作品としたひとつの宣言であり宣誓でもあったはず。だから稚く短絡的ではあっても、それゆえの荒々しさと意気の高さに惚れこむようなところはあった。ただ『神狩り』を読んでどうしても納得できなかったことがあって、それは触れることすらかなわない神の絶対性に対してそれでもなお逆らわずにいられない、ヒトという種としての登場人物たち/狩人たちの“反抗”にいたるオブセッションがよくわからないということだった。“神がヒトに対して犯した罪”というのがどんなものであるのかを、それこそ読み手がうんざりして世を儚んでしまいそうになるほどに書いて、”狩り”へと駆り立てられるモチベーションをプレゼンテーションするべきで、それがないって言うならコレは「なんか共産主義者ってのが世の中に陰謀めぐらしてるらしいから狩っちゃおうぜ」という赤狩りにも似た、“神”に対する冤罪じゃないのか…と初読時、ぼくはそんな風に考えてあまり積極的には評価したくないと思っていた。聖書を読んでたら神があまりに酷薄なんでムカついた…ということ以上の根拠を提示して欲しかったのだ。だからこそ『神狩り2』序盤における、ヒトラーホロコースト幻視に、そこから連綿と綴られるであろうヒトの歴史/思想史に刻まれた髪の犯罪歴の列挙を期待せずにはいられなかったわけではある。山田正紀流にコスチュームプレイされたヨブの物語、大審問官の物語を読めるかもしれないと期待したわけではある。
しかしながら人類史的な位相での神の罪の記録なんてそんなものに興味はないとばかりに、『神狩り2』で山田正紀が書いたのは結局のところ神を同定することと、ヒトが神に対抗するための力を持つにいたる道程を描くことだった。つまりは今までとまったく変わらない山田正紀であって、結局また神と獣の戦争を描いているだけの山田正紀であり、それはそれで充分に面白い物語ではあるしぼくが熱愛してやまない『神獣聖戦』のヴァリエーションのひとつとして考えれば腹も立たないはずであり、実際それなりに愉しんで読んだはずではあるのだけれども…だったらなぜ『神狩り』のメインアイデアである神の言語というガジェットをまったくべつの物にすり替え、『神狩り』の登場人物をほんの申し訳程度に登場させただけの物語に“2”という継承の称号をあたえたのか、そう問い詰めたくなる気持ちを抑えることができない。想像できないものを想像することの綱領であった『神狩り』の名を継ぐのならばその階梯をひとつでも登ったという証を提示するべきなんじゃないのか…と、ほとんど言いがかりのような愚痴をこぼさずにはいられない。想像できないものを想像するとは厳密に言ってしまえば、あらかじめ敗北を結論付けられた戦いであり、それでもなお宣戦布告を叩き付けずにはいられない折れることなき鋼のロマンティシズムをこめた断言であるはずで、それが『神狩り2』ではこともあろうことにどさくさにまぎれて、ヒトの手の届く範囲の形而下の存在として神を同定し、さらにはヒト対しては神に抗えるだけの武器/能力を都合よくあつらえてしまっているじゃないですか。{神:ヒト}≒{OS:コード}という相似関係、それがもはや山田正紀のコンセプトとして定着してしまっているのだろうか。「想像できないものは…まあとりあえず想像できるものとすりかえてごまかしちゃおう」、そんな妥協は少なくとも「神狩り」の名を継ぐ物語の中に見つけたくはなかったんだけど。