F・X・トゥール『テン・カウント』[bk1]

…この世界に踏み入る資格の無いものもいる。資格はあっても、踏み入ってはいけないものもいる。そんなやつは、殴り飛ばすのさ。*1…男だけじゃない、闘うのは。女だって、闘っていいご時世なのだから。だが、このベイビィには過酷な運命が待っていた。*2…差別もあるさ。不公平もある。世の中は、そんなものだ。だが、こんな馬鹿げたことは、あってはならない。絶対に。*3…これらは、ジェイムズ・エルロイジョイス・キャロル・オーツの推薦文とともに本書の見返しに載っている作中からの引用文の一部で、まぁこれだけでも背骨にズンと来るものがあって買う気満々なのだけれど、決め手になったのは著者の略歴。高校時代に演劇に興味を持って大学でドラマの学位をとり、海軍勤務後メキシコで闘牛士、牛の角に引っ掛けられた後バー仕事のかたわら三度の結婚と離婚。そして五十歳ちかくで突然ボクシングの情熱に憑かれすぐに挫折、コーナーマン、トレーナーに転向、その筋ではけっこう名前が知られるようになる。そして心臓発作に見舞われ三度の手術を経たあと「このままじゃ死んでも死に切れない」とそれまで書いていた小説を完成させたまとめたのがこの作品集だという、そのときトゥール七十歳。うずうず。
で、肝心なのは内容なワケだけども、たとえばディック・フランシスの競馬物や阿佐田哲也の麻雀物が賭博小説ではなく冒険小説やビルドゥングスロマンであるのと同じように、『テン・カウント』に納められている作品群も、ボクシング小説ではあっても格闘小説ではない。減量の苦しみとか殴られたときの痛み、目の前の相手を叩きのめそうとする野性的な感情の高ぶりなど、おおよそボクシング小説と聞いて期待するであろう描写はほとんどなく、たとえば呼吸を止めてパンチを打つと疲労を招くことや目蓋をよく切るボクサーは神経が切れて垂れ下がり猿顔になることとか試合が近くなったボクサーに対しては肉体と精神をハードなままにしておくためにまっさーじをしないこととか、システマテイックで合理的でありながら普通の人が想像していなかった細部を、ボクシングの裏表をよく知った口から語られている。その細部は、リアリティを確保するというよりはむしろ別個の世界観を現前させる手続きのように感じられます。「ミリオン・ダラー・ベイビィ」における、トレーナーがボクサーに対してパンチの打ち方、体の裁き方を伝授する様子はそれこそ魔術師が弟子に秘術を伝えるときの様子さえ思い起こしたりもしました。ボクシングというものがボクサーを中心としてトレーナー、カットマン、コーナーマン、プロモータが大渦巻きのように一個の有機体的な集団を作ってチーム同士がしのぎを削っているような、ある種異世界ともいえる閉鎖系のなかにおける、なんてゆうか気恥ずかしくなるほどのドラマティックな人生の一シーンが描かれ、それがなんともたまらない。
そしてどの物語にも通底するのは著者のボクシングという世界への誇り、そしてそれを通してうまれるボクシング界に棲みついている人間との共同体的な仲間意識でしょう。それは白人が少数派であるこの世界において、さまざまの視線の中で受けいられた著者の実感として作品のここかしこに感じられます。人種問題に関する著者の思いはとくに(原書の)表題作「ロープ・バーン」にあらわれていて、そのラストシーンにむけて高まっていく壮絶さとあいまって長く記憶にとどまる一編となっていますね。かなりおすすめ。稲見一良好きなひとなら文句なしかもしれません。

*1:「凍らせた水」より

*2:「ミリオン・ダラー・ベイビィ」より

*3:「ロープ・バーン」より