松岡正剛『遊学』[bk1]

もう何度も読み返している本だけれどいまだ飽きない。“日本イデオロギーの密林(三枝博音)”“言語の物質性と代作性(柿本人麻呂)”“差異の直感を科学する(ニコライ・ロバチェフスキー)”“立ち上がった百科聖書群(ジョリ・カルル・ユイスマン)”“宇宙に合理をつめすぎる(エルンスト・ハインリッヒ・ヘッケル)”“遠方では時間が遅れている(稲垣足穂)”…等等ハッタリの効いた章題を持つ『遊学』は142人の哲学者、思想家、アーティストについて書かれてはいるけれど、知識人たちの客観的な立ち位置を規定するというような、いわゆる小評伝やブックガイドといったものではなくて、テクストから“松岡正剛という感覚器官”が感じ取った主観的な感触/一般的な言語表現としてはあらわすことが困難なテクスチャーを何とか言葉としてあらわすために、詩的な言葉や捏造とも取られかねない大仰な暗喩をつかい、異種のテクスト間の断絶/間隙に入り込んできてしまう何か些細な/新しい視点を補完/増幅するという…いってみれば松岡正剛流・パラダイムシフトの実践リプレイ集みたいなものだろうか。…クレーの線は尺度であった。力学の夢を追う単位であった。たとえば、ハンス・ベルメールベン・シャーンにも似たような線の活動がある彼らの線束も大胆に空間を占めている。しかしそれらには人間の個体意識を解剖するヒューマニズムやアンチ・ヒューマニズムはあっても、力学がない。エロティシズムはあっても、速度がない。社会があって宇宙がない。(中略)クレーの線は散歩に出かけるようなふりをしていながら、ダランベールの力学原理やラプラスの天体力学に分け入ってしまうのだ。…*1適当な頁を開いての抜粋、こんなセンス・オブ・ワンダー溢れるフレーズがほぼ全頁に満ちている。なんともカジュアルでスタイリッシュな禅問答で、思えばこの断定の格好よさにハイティーンだった頃の僕はたいそうしびれたものです。クラシカルで古色蒼然な伝統的解釈は、もはやカットアップ&フォールドインされるための素材に過ぎない。どこまでも軽くリズミカルなステップの乱調と破調。無数のテクストのあわいに構築された知識のバーレスクこそが“遊学”。

*1:『遊学』大和書房版p632-633、パウル・クレーの項(尺度は進行しつづける)より