『地球に落ちて来た男』[bk1]

私は偽りの自伝を書いているのだと思う。その形式が、私の知るかぎり、他の人たちを感動させている。ときどき、他人から疎外されていると感じることがあるが、若いときは、その感情が今よりずっと強かった。私の主要な登場人物たちは、ビリアードのプレイヤーであることで、火星から来たことで、ロボットであることで、読書やアルコールにしか生きがいを見出せない人間であることで、世の中から疎外されている。私は精神的に抑圧されている人々を描くのが好きだし、執筆中、それに真剣に取り組んでいる。*1
これは本書の解説で高橋良平氏が引用している、テヴィスが自作について語った言葉で、同じ文章を高橋氏は短編集『ふるさと遠く』の解説でも引用し、疎外という言葉を鍵としてテヴィスの作品を読み解いてます。孤独感、居心地の悪さ、"ふるさと"から遠く離れてしまった寂寥感…疎外を連想させる描写は確かに頻出しますし、その思いに対して登場人物が抱くたちいらだたしさ、やるせなさといった感情もしっかりと伝わってきます。しかしながら今回ぼくの胸を詰まらせたのは、そのようなメンタリティに属する部分よりはむしろ、登場人物たちに絶えずまとわりついて離れず永遠に続いていくかのような不断の疲労感でした。
それは強化されているものの、いつもくたびれている筋肉のかすかな痛みのように、たとえどのように見慣れたものになろうと、この巨大で多様な惑星の信じがたい奇妙さのように、避けがたく、つねにニュートンにつきまとっていた。*2
惑星アンシアから地球に落ちて来た男ニュートンにとって地球は暑く、重く、まぶしく目を焼き、肉体を絶えずさいなみ、むしばんでいきます。肉体的な相異から医者にもかかることもできない、特命の任務を悟られることの無いよう必要以上に人とかかわることのできない…ニュートンが置かれている疎外的な立場はつまるところ、疲労を癒すすべの絶たれているということなのでしょう。
ときおり、まるでヒトと同じように、自分も気が狂ってしまうにちがいないという気がした。とはいえ、理論上、アンシア人が発狂しうるということはありえなかった。*3
そして、どんなお伽噺に出てくる魔術師やエルフより大きな魔法や策略を抱えているトマス・ジェロームニュートン − じっさいにあらゆるお伽噺を読んでいる − 自身、いまや正体を気づかれ、とらえられたいと願っているのだろうか? *4
発狂することもできない、自分から任務を放棄することもできない…自分で逃亡する道を絶たれてしまっているニュートンにとって、彼がこの物語の中でむかえることになった結末はある種の救いなのかもしれません*5。少なくともぼくはそう読みました。すこしだけなきました。
 

なお、p187以降で明かされるニュートンの任務とそれに関する対話は、当時の世界状況を映したものだったのだろうけれど、今現在進行中の問題でもあります。→   「人類は破滅の仕方をみずから選ぶ権利を持っていないのだろうか?」   *6という問いかけに、ぼくは胸を張って答えることができなかったことだけは書いておいたほうがいいでしょう。

*1:扶桑社『地球に落ちて来た男』p277

*2:同書p54

*3:同書p132

*4:同書p140

*5:…それがどんなに悲劇的であっても

*6:同書p190