舞城王太郎/キャシー・アッカー

・・・ポルノグラフィックな言説とアクロバティックなまでの<剽窃>、そしてカットアップと断片化された語りを得意とする。とりわけ、アッカーの<剽窃>=インターテクステュアリティは有名。(中略)また、アッカーはグラフィックなセックスと暴力描写で知られるが、こちらのほうは、公衆便所まがいの著者自筆イラストを付したBlood and Guts in High School1984*1が有名・・・ (書肆風の薔薇刊 positive01掲載 風間賢二著「ポストモダン作家ベスト60」のキャシー・アッカーの項からの抜粋)
なんとなく舞城王太郎っぽくないですか?
それはおいておいて、じつは最近の舞城にはあまり魅力を感じてない。短編「熊の場所」あたりが興奮しながら読んだ最後あたりで、『阿修羅ガール』以降はどうも乗れなくなってきた。テーマが実験的、観念的になってきているけどそれはまったく問題ない。というより、ぼくは舞城にはもともと小説的なテーマとか物語としてのカタルシスとかをあまり期待していない。いかにもメタフィクション的な仕掛けもサイケデリックな描写も英国ニューウェーヴSFやマキシマリストとか呼ばれるポストモダンフィクション群を読みふけったあたりで大体お腹いっぱい。もちろん好物ではあるから出されれば飛びつくけどそれだけでは満足できないのだ。
ぼくが受け取った『煙か土か食い物』の魅力はもっとフィジカルなもの。頭脳や思考に働くものではなく、脊髄や内臓へ直接響いてくる饒舌でパーカッシヴな”あの”文体こそがぼくを引きつける最大のものだ、唯一といってもいいかもしれない。『煙か土か食い物』においては謎→解決の過程を超加速&多重化+奈津川家に関する挿話といったプロットの洪水がまるで変態的にうねるベースラインで、そこに絡むようにシンプルではあるが力強く息切れしない言葉の羅列が高速ドラミングのようだ。思考よりも早く腰が動き心臓が脈打つ快感、これなくして何の舞城か。
・・・そんなぼくにどう対処するかはあかなの考えることだ。僕は僕の身勝手を認めているし、あかなもそれに気付いているだろうし、気付いていないようなら今度ははっきり言ってもいいそしてそんな僕を遠ざけるも、一緒にいるも、あかなが選べばいい。あかなが考えればいい・・・(講談社ファウスト掲載、舞城王太郎著「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」p61より抜粋)
とりあえず任意にページを開いてみた。リズミカルではある。でもこれでは踊れない。この文章は何かべつの、たった一言で換言できそうだし、映像のシーンひとつでも代替できそうだ。同じような言葉を少しづつ変えながら何度も何度も繰り返す、こういう文章を饒舌とは言えない。最近の舞城は呂律が回っていない。
惚れた弱みもあるしポストモダンフィクション作家としての面も多少気にはなるのでこれからも追っかけはする。うーん、でも・・・とりあえず今月の「群像」は買います。愛媛川十三にちょっと惹かれますな。

*1:『血みどろ臓物ハイスクール』の邦題で1992年白水社より訳出