山田正紀『イノセンス After the long goodbye』[bk1]

SF JAPAN VOL.09誌上で押井守「その手があったか」と言わしめた趣向は映画本編のアレに対応していて興味深いし、描かれている事件もわりとトリッキーで面白い。でもそんなことよりもなによりも、読みどころなのはバトーの鬱陶しいまでの独白。一人称視点で自分の行動/思考を“だれか”に述べているかのような語り口は、やや古めかしいハードボイルド小説に見受けられるものだけど、それにしても原作や映画版の印象をこれでもかとばかりに打ち砕く饒舌さは一読の価値がある…かもしれない。ほんの一瞬のアクションシーンにおける己のサイボーグ的機能の開陳を滔々とくだりは、なんていうか時間が間延びしたような感じすら受ける…って、それじゃあエンタテイメントとしては致命的なのだけど、そこまでして自分のサイボーグとしての生き方/生かされ方を自覚しないではいられないバトーのありようは感動的ですらあります。
それにしても、士郎正宗攻殻機動隊ってのはサイバネティクスの発達した世界におけるテロ/カウンターテロの関係を、人体におけるウィルス抗原/抗体の関係に照らし合わせているようであって、それゆえキャラクターたちには(個性的ではあっても)どこまでもシステマティック(機械的)な印象が付きまとっている。そもそもヒトとAIの境界をあらわすタームとして“ゴースト”という、実在するのかしないのかがあやふやな存在(幽霊)を語源とするあたり、「機械と人間の違いなんてそんな幻想的な観念の差でしかない。所詮人間なんて一個の機械にすぎないんだ」と言っているように思えてならない。押井守攻殻機動隊の場合その価値観が反転していて、「人形にだってゴーストは宿っている」という、ゴーストの価値を極めて大きなものとして捉える観点から作品を編み上げているのだと思うのだけど、“時計の歯車を眺めて、そこに何らかの存在意義を見い出す”ようなその行為はとてもヒューマニスティックなものに、ぼくの眼には映ります。まぁ、そのわりに、作品自体には(システマティックな原作と比べて)生命力が致命的に欠けているっていうのはなかなか倒錯している感じではありますが(笑)。