隆慶一郎

時代小説といえば捕物帳とかNHK大河ドラマとか、そーいうものしか思い浮かばなかったのは十数年前までの話。何がきっかけだったかすっかり忘れてしまったけれど柴田錬三郎『孤剣は折れず』『剣は知っていた』『運命峠』を立て続けに読んで、その滔々たるロマンにのめりこみました。デュマ、ディケンズバルザック、そのラインに入ってくる作家が日本にいるなんて…ロマン文学というのはどこか大陸的なもので、島国には似合わないんじゃないかという先入観があったせいかひどく吃驚したおぼえがあります。もちろんそのあとは中里介山大菩薩峠』、白井喬二『富士に立つ影』と読み進んでいって、物語の大海に魂を攫われる日々を送ったものですよ。古書店国枝史郎を大量に見つけたときのあの興奮はいまでも忘れられません。
隆慶一郎を読み始めたのは『影武者徳川家康』[bk1]から。時代小説なのに「このミステリーがすごい」で妙に高評価をもらっていたのが気になって年越しの一冊に選んだのが運の尽き(笑)。最新の民俗学の考証を踏まえた中世自由民のユートピアをテーマとした伝奇時代小説…だとかどうとかそんなことはどうでもよくて、いや別にどうでもよいわけじゃないけどそれよりも主人公たちの肝の据わった生のあり方にいかれてしまったのです。死ぬことと見つけたり[bk1]は隆慶一郎が描いた人物像がもっとも純粋な形であらわれていて、ぼくが最も好きな作品。まず鍋島武士の生の有り様に驚く。朝起きるとき事細かに、ありとあらゆる類の自分の死に様を痛みや苦しみもまじえて想像することによる”死の稽古”をすることによって、死人となる。死んだ気になって、とはよく使われる言葉だけれどそれどころじゃない、もう死んでるのだからこんな厄介なダルタニヤンはいない。喧嘩両成敗が基本の世界で睨まれたらひとたまりもないだろう。むこうは死ぬことなんてお構いなしで迫ってくるのだから絡まれるほうはただの死に損だ。この一歩間違えれば傍若無人の乱暴者になりそうな主人公像が、しかしとてつもなく魅力的なのは、主君に仕える紛れもない騎士だからであり、誓約のロマンティシズムが行動を律しているから。死のあり方を問う『葉隠』をよくぞここまで生のあり方を問う物語へと組み替えたものだと思う。作者の死による中断がとても惜しまれます、それでも傑作ではあるのですけどね。